2019-06-06 第198回国会 参議院 厚生労働委員会 第15号
そのうち日本人の戦死者は十八万八千百三十六名、そのうちまだ見付かっていないのが平成二十八年度末で二千八百七十五柱、ここ数年は見付かる遺骨数が減少しているのが現状です。 沖縄では自治体やボランティアグループが遺骨収集を行っているようですが、二〇一六年に成立した戦没者遺骨収集推進法の精神に基づき、一刻も早く遺族の元に遺骨を返すためには、国として大掛かりに遺骨収集を行う予定というのはないのでしょうか。
そのうち日本人の戦死者は十八万八千百三十六名、そのうちまだ見付かっていないのが平成二十八年度末で二千八百七十五柱、ここ数年は見付かる遺骨数が減少しているのが現状です。 沖縄では自治体やボランティアグループが遺骨収集を行っているようですが、二〇一六年に成立した戦没者遺骨収集推進法の精神に基づき、一刻も早く遺族の元に遺骨を返すためには、国として大掛かりに遺骨収集を行う予定というのはないのでしょうか。
硫黄島では二万一千九百名の方、戦没者としてお亡くなりになりましたが、現在までに収容遺骨数一万四百四十柱でございます。いまだに一万一千四百六十余りの未収容の遺骨があるという状況でございます。 硫黄島につきましては、硫黄島に係る遺骨収集帰還推進に係る関係省庁会議というものをつくりまして、これ、取組方針を定めて、滑走路地区あるいはその周辺、随時、遺骨収集を実施をしてございます。
こういったことで、天皇皇后両陛下の御訪問というものは本当に大きな成果を上げておられるということを感じ入ったわけでございますが、一方、もう一つの御質問の遺骨収集状況についてのお話でございますが、私ども承知しておりますのは、戦没者の概数がペリリュー島におきましては一万二百、政府派遣収容遺骨数、これが七千六百四十三ということを、昨年の十月末現在ということで承知をしてはおりますけれども、我々現地に行ったときのやり
このうち、遺骨収集帰還事業による収容遺骨数は約三十四万柱。 昭和四十二年度から五十年度までの九年間で二十一万五千柱の収容で、この間の年間平均収容数は約二万四千柱であったのに対し、平成十八年度から平成二十六年度までの九年間では約二万八千柱の収容で、この間の平均収容数は三千柱と大幅に減少をしております。
いわば先行事例といいますか、比較的データの多いシベリア抑留中の死亡者の方が少しDNA鑑定は進んでいると認識しておりますけれども、このシベリア抑留中の死亡者の身元特定数、収容した遺骨数、そしてその遺骨に係るDNA鑑定による御遺族の判明数、この実績についてまず数字を伺いたいと思います。
シベリア抑留中死亡者の身元特定数、シベリアにおいて収容した遺骨数及びその御遺骨に係るDNA鑑定による御遺族の判明数ということでございます。
そしてまた、いろいろな調査がございますけれども、北朝鮮で亡くなられた方、その御遺骨の数、特に未帰還遺骨数が約二万一千六百柱、このようにされているところでございます。北朝鮮が今後、その遺骨収集のコストを要求してきたときは、これを単純に計算いたしますと、先ほどの三百万だ四百万だと、四百万といたしますと約八百億円の、これはある種のビジネスになるということでございます。
さきの大戦で、フィリピンにおいて亡くなられた方は五十一万八千人とされており、遺骨の収容数は十四万二千二百三十二柱、今なお未送還の遺骨数は三十七万五千七百六十八柱ということになっておりまして、こういった本当に国のために亡くなられた皆様方を一刻も早く日本にお迎えをするということは大変重要だというふうに考えております。
収骨した遺骨数につきましても、当初、私どもは、御遺骨の柱数をどういうふうに数えていたかといいますと、大腿骨二本をもって一柱と数えておりました。それで丹念に丹念に数えておりました。 しかし、散乱遺骨と私どもは呼んでおりましたけれども、南方の方での戦闘の途中で亡くなった方々の御遺骨というのは、埋葬されておるわけじゃありませんから、そういうふうに散乱しておるわけであります。
この援護法による障害年金や特別弔慰金支給などについての改正案の審議に当たりまして、私が問題にしたいのは、第二次大戦で亡くなられた犠牲者の遺骨収集の問題で、先ほど戦没者数そしてまた遺骨送還数や残存遺骨数などについては既に答弁がされました。 今日までもう既に戦後五十四年過ぎております。
現在、米軍と自衛隊の基地になっておりますこの硫黄島では、戦死者、遺骨送還の数そしてまた残存遺骨数はどうなっておりますでしょうか。
○井上美代君 硫黄島でも残存遺骨数は一万七十体ということですので、半分以上まだ残っているということになります。 硫黄島の遺骨収集の体制や、また作業、そして島の中の収集場所、それがどういうところになっているのかということをお聞きしたいと思います。
収集遺骨数は年間約九百柱から、多い年で三千柱というふうな数となっておるところでございます。この十年足してみますと、トータルで収集回数が七十四回実施いたしておりまして、約一万七千五百柱の遺骨を収集している、こんな状況でございます。
したがいまして、差き引きいたしますと、残存の遺骨数は百二十万ということになるわけでございますけれども、その中には、たとえば海上でお亡くなりになったというようなことで収集が事実上不可能であるというものも含まれておるわけでございます。
○政府委員(河野義男君) 硫黄島におきます遺骨の状況は、過去九回遺骨収集を行いまして、約四千九百柱持ち帰っておりますが、現在残っておる遺骨は大体ごうの中にあるというふうに考えられておりまして、ごうの遺骨を収集するためにはいろいろなむずかしい問題もございますが、何せごうの中でございますので、残存遺骨数が幾らと、正確な推計は困難かと思いますが、硫黄島全体で約二万人の将兵が玉砕しておりますけれども、ごうの
引き揚げ時に送還をいたされました御遺骨の数は三万八千九百柱、残留遺骨数は推定約二十万六千五百柱でありまして、そのうちに一般邦人は約十四万柱、そのように考えられております。
ところが実際収集をいたしました遺骨数というものは二千五百六十一体ですね。四十七万の将兵が戦没をして、若干決戦前に帰ってきた者もあると思うのですけれども、政府の派遣した遺骨収集団の収骨作業の結果というものが二千五百六十一体、こういうていたらくでは、実は私ども現地の事情を知っておりますから、こんなことでいいんだろうかという、遺族の方々の心情というものが目に浮かんでくるようです。
ビルマ方面の戦没者総数十六万七千、うち派遣団出発前までに内地に送還されていた遺骨数は約八万でありまして、八万七千の英霊が未帰還でありました。そのうち約四千が雲南省内にありまして、約七千がインパール、コヒマ等、インド国内にあったのであります。第三、派遣団の行動及び成果につい、派遣団は一月二十三日、三浦団長以下三名を先発せしめました。主力は一月三十日出発のところ、都合により一月六日に出発いたしました。
そうしまして現在までにほぼ判明した点を総合いたしますと、第一は、戦時中日本へ連行された中国人俘虜労務者は三万八千九百三十五名であつたこと、第二、俘虜のうち死亡したものと推定されるものは六千八百三十名であること、第三、昭和二十八年に送還した遺骨数は一千二百四十一体でありますが、このほかに終戦後釈放された俘虜たちが帰国する際、若干遺骨を持ち帰つたものもあります。